乾麺とお菓子と本

おいしい乾麺とおいしいお菓子、面白い本をご紹介するブログです。

岩波文庫 史記列伝一 穣候列伝 第十二

今回ご紹介する本は

岩波文庫から出版されている

史記列伝一」

の、穣候(魏冄)列伝 第十二

です。

f:id:komegane:20210923164032j:image


秦の丞相で、穣公・陶公とも呼ばれています。
昭襄王に仕えて、権勢を振るいました。

史記の列伝では、13番目に紹介されています。


さて、この人、イメージは
辣腕の野心家 です。
で、すごく怖そうです。。

あなたの会社にもいませんか?
仕事はできるのですが、顔も雰囲気も怖くて、
報告するのも緊張する人。

できれば、一緒に仕事したくないタイプの上司ですね。

絶対怒られますね

 

この人の功績ですが

1.秦の後継ぎ問題から起こった内乱を沈めた
2.推薦した将軍 白起 の大活躍
3.将軍として、魏、斉など領土を奪った
4.秦国の天下統一の礎となった

政治家としてだけではなく、軍事でも大きな功績をあげています。

これほど国のために尽くした人物ですが、
しかし最後は、王によってすべての権力を取り上げられ
国を追われることになります。

なぜ、このような最後となったのか
史記列伝のエピソードを追いながら考えていきましょう。

 

さて、魏冄は、秦の昭襄王の母親である
太后の弟です
つまり、昭襄王のおじにあたります。
弟は羋戎(びじゅう)です。


先代の王である武王が不慮の事故により
若くして急死したため、後継ぎ問題が発生。
その内乱を沈めたのが魏冄です。

昭襄王を王と立てるとすぐに対抗勢力を殲滅し、内乱をおさめました。

幼い昭襄王の代わりに、母親である宣太后が政治をみることになり
実際の政治は魏冄にまかせました。

昭襄王から見ると大恩人になります。
魏冄側から見ると、姉である宣太后と計って
権力を手に入れた ともみれますが、
何はともあれ、内乱を沈める実力はあったと言えます。

 

さて、最初のエピソードは、魏冄が宰相になった時のお話です。
この話では中心にいません。
なぜ、司馬遷が乗せたのかはわかりませんが、
こんなお話です。


昭襄王が即位して7年目に、当時の宰相が亡くなり、
楼緩が宰相になりました。

そのことを不安視した趙という国の王は
使者を立てて、秦の昭襄王に魏冄を宰相にするよう
説得させようとします。

使者の部下はこの使命の難しさを危惧し、一つの提案をしました。

「この使いは、失敗したときに、楼緩に恨まれてしまいます。
そこで楼緩にこのように言うのです。
「あなたのために、ゆっくりこの使命を行います。
王に対し、この要求が差し迫ったものではないと思わせることができれば
王は趙の要望を聞きいれることは無いでしょう。」
こう伝えておけば、たとえ超の要求が断られても、楼緩から感謝されるでしょう。
上手くいけば、魏冄から感謝されるでしょう。

結果として、魏冄が宰相となり、楼緩は追い出されましたが、
使者は恨まれることはありませんでした。

処世術として勉強になるエピソードですが、メインは使者と楼緩なので
魏冄は少し遠いですが、何はともあれ宰相となりました。

次に魏冄の最大の功績ともいえる
無敵の将軍 白起 を抜擢し他国を攻め大きな戦果をもたらした話が書かれておりますが
その流れで、さらっと気になることが書かれています。
それは
昭襄王が即位して15年目に、病気を理由に宰相を辞任、翌年、また宰相を任命され
穣・陶という国を与えられています。
これによって、穣公と呼ばれるようになるのですが
素直にみると、病気になったので仕事ができなくてやめた魏冄を
無理にでも宰相になってもらうために、穣・陶という国を授けた。
と見えるのですが、
その後も活躍し、大きな財産を築くことを考えると、怪しんでみても良いのかもしれません。

つまり、昭襄王や秦国に、自分の価値を再認識させ、復帰するにあたり、国を領土を分けるよう要求したのかもしれません。

その4年後、自ら将軍として魏という国を攻め、大小60余りの城を奪い取りました。
そのままの勢いで魏の首都である大梁(たいりょう)を攻めて包囲しました。

絶体絶命の状況に、魏は使者として、須賈を立てて魏冄を説得しようとした。

結論から申しますと、魏冄はこの説得に応じて引き上げます。

理由は、自身の保身のため です。

魏は徹底抗戦の覚悟があり、国中の兵を集めている。戦えばおそらく魏冄は負けることとなる。今ならまだ、脅して魏の領地を奪うことができる。ここで引き上げることができれば、自分自身の領土である陶への道がつながるので、交通の便が良くなる。今、あえて危険を冒すことはない という説得に応じました。

その後、結局魏は秦を裏切ったため、再度攻めて多くの功績を上げました。

 

盤石と思われた魏冄ですが、范雎という学者上がりの男によって、崩されます。

昭襄王は范雎のを大いに信頼しました。魏冄の戦略方針を否定し、かれら魏冄、宣太后、羋戎らで独占されている政治体制を批判し、昭襄王はそれを受け入れ、かれらを追放しました。

 

政治、軍事ともに才能があり、さらに体制も固めており、他国からも恐れられていた魏冄が、どこで間違えたのか。

それは、自分の利益のみ考えていたから ではないでしょうか。

おそらく魏冄の判断基準は、

自分(味方も含む)の利益となるか 

だと思われるのですが、利益関係なく、他者のために行動することができれば、もしかしたら、違っていたのかもしれません。

言葉にするのは簡単な、徳 が、永く繁栄するコツなのかもしれません。

 

今日はここまで。

 

 

史記列伝 一 全五冊【電子書籍】[ 司馬遷 ]

価格:990円
(2021/12/7 19:32時点)
感想(0件)